昭和44年12月13日 13日会
( ? )おかげは受けられるというのは、金光大神の道に限らないのである。けれどもね、金光様の御信心が、この神を生み成していくという、生神への道だとしかも、みんながそのようなおかげが受けられると、教祖様が仰られるのですから、その生神を目指しての信心ということになるとですね、ただこれは喜んでおっただけでは、有り難い有り難いというておっただけでは、おかげは頂こうけれども、生神にはなれないという感じなんですね、今朝のご理解頂いとったらそうでしょうが。
私達はそげん生神様を目指さんでん、おかげさえ頂きゃよかけんで、いやそうです。世の中にはですね、様々なその「永瀬さん、こっちどうぞ」繁雄さんもうちっとこっちこっち来なさい、生神、生神金光大神という最高の、御神格というかね、その最高の神格を目指して日々、信心生活のあり方というものがです、そこに目指されておらなければ、本当いうたら、金光さまの御信心じゃないと言う事になるのです。今申しますように世の中にはですね。
あの様々な何かこう喜び好きの人がありましてね。本当に有り難うございますばっかり、えらい言う人があってから、実際ありがとない人が沢山あるんです。あの人はあがしこ有り難い有り難いというござるけん、おかげ頂かっしゃらにゃならんとに、いっちょんおかげ頂きござらんです。いわば口ばっかり有り難い有り難いて言いござるとだと言う事、だから口ばっかりでも言わんよりかはましね、それよりも、今度私御本部参拝さしてもらってから、あの豊美のところへ寄せてもらった。
というのはもうとにかく、もう朝から夜まで豊美が笑ろうとる(笑い)もう、よう笑うとがまぁ評判になっておるらしいですけども、まぁ私はその娘婿になる、威智雄さんちゆうのが、まぁその泣くよりましと思うて下さいち私(笑い)まぁもう本当に笑って、そのう今の有り難い有り難いと言うておることはですよ、決して良いことばっかりじゃないて、本当に心から有り難いというものではなくて、口だけ有り難い有り難いて言ってるのは。けれどもねその有り難くない。
有り難くないち言うて腹ば立てておるよりもよかわけです。いわゆる、その豊美じゃないけどもね、笑っておるということはですね、泣くよりもましであってですね、けれどもそのなら、笑っておることが必ずしもよいことではないて。もう失敗しても笑う、怒られたっちゃわらうというような感じです、豊美のその実際見ておるとそうです、私共が行きましたら、はぁもう狭いところで私どん色々、お広前にお届けに出ろうと思うて、あそこ出かかりました。
おもてまで皆家族の方で送ってきちゃった、そしたら表に入り口の所にこう花が活けてありますもん、それをひっくり返しとりますです、そしてから一生懸命自分で笑いよるとです、もう畳一遍水があらと( ? )思うて、唯おかしゅうしてこたえん風です。と言う様にですねもうとにかく、まぁどうしてあげんそそつかしかじゃろかち自分でも思いよるような風で、そのそれが可笑しいらしいんですけれどもね、あの私たちの信心がね、本当にその有り難いものが生じてくる、心の底から有り難いとね。
それを今朝のご理解には、この神が生まれるという意味に頂きましたね、私共の心の中に、神が生まれる、生神とはここに神が生まれると言う事であって、とこう言われます。生神とは神がここに生まれるということなのです。その心に神が生まれると言う事は、どう言う事かというとです、今ゆう心から有り難いなぁと言う事なんですね、だから真に有り難いという心が生まれた時には、すでに生神金光大神の、まぁ御心であるというて良いわけです。けれどもそこに生まれてくる生神というのはです。
神様との(拍手1回)拝み合いというかね、それを今朝のご理解にはね、神の願いを受けてたつと言う事です。神様がこっち向いてござるならば、自分たちもそげな方を、こう向き、こう向き合うと、神様と私共が向き合うと言う事、合掌し合うと言う事、これを人間の姿でいうなら、抱擁し合うと言う事、抱き合うと言う事、抱き合わずして、いわば男と女の抱き合いによって、交流することによって子供が生まれるようにね、神様と私共とが、こう拝み合って、初めて生まれてくるのが生神の境地なんだ。
そこから神が生まれてくるのである。してみると今まで頂いてきておった、喜んでさえおりゃよかち言う事とは、大変意味が違ってくるですね。神様とこう向かい合って、いうなら神の願いに立って、神の願いを受けて立たせてもろうて、初めて神様が喜びなさる喜びが、こちらに交流してくる。その喜びでなからなければ、金光教で言う所の、真に有り難いとか、生神金光大神が生まれなさるという、神が生まれると言う事であってと言う事には、ならないと言う事が、今朝のご理解に説いてございますよね。
ですからこれをんなら、まぁ分かりやすくいうとですね、神様の御心をまずしらなきゃならない。そして、その神様の心の方へ向きを変えて神様の心の方へ向きを変えて、信心に向きを変えて、日々の生活がなされるね、御神訓に「信心してまめで家業を勤めよ。君のためなり、国のためなり。」というのがあるね、信心してまめで家業を勤めよ。君のためなり、国のためなり。
段々面白い説が出てくるんですよね、こうやってもう敗戦、そして君のためとか君に忠義なんて言う様なことはない、戦時そのう敗戦以前の私共の場合は、ここんところを君のためということを、天皇陛下の御為というふうに頂いたんです。ところが教祖様のこの~御神訓を頂きますとね、君のためなりと言う事は、お前自身のためだと言う様な、天皇陛下のためじゃないですね。
お前が一生懸命働かせて頂くと言う事は、そのままがあなた自身のためなのだと、しかもその、あなた自身のためであると言う事は、国のためにも繋がっておらなければならんのだと言う事。この辺のところの、そのう何ちゆうですかね、御神訓の素晴らしさがあるねんなら、生神への道ということはです、もう生神様になることにばぁっかり精進しとらないけん、教会にばぁっかり参っとかなんちゆうことじゃないです。
その家業そのものがです、神様の思いに、神様の心を受けて立たせて頂くという状態が、私共の日常生活であればいいわけですね、生神とはここに神が生まれると言う事であって、この方がおかげの受け始めと、ですから私共も次々にそういう生神への道を神習うていかなきゃいけない、神習わせて頂くことが、金光様の御信心。最近教祖に還れとかね、教祖生神金光大神の生きられ方と言った様な事が問題になっとりますよね、問題というよりも、そうであらなければならないと、まぁ極限しております。
また事実そうです。金光大神の生きられ方がです、そのまま私共の行き方に、直結しとかなきゃいけないね、生神金光大神の生きられ方ね、生きられられるその御態度がです、私共の生活の態度でなからなならんというのですよね、それこそいわゆる生神の道を強調しておるわけです、そんなら生神の道というのは、どう言う事かというとですね、私共が神様の思いが分かり、神様の願いを受けて立たせてもらう、受けて立つのだ。
そんときに私共と神様とが初めてこう、向かい合うことになる、神様と私共の本当の交流が始まるのであるね、神様と私共の合体の姿が、私共の信心生活ね、だからそこから交流するもの、良いものが生まれてくるはずです。何が生まれてくるかというと生神が生まれてくる心の中にね、そういう神様の心に、受けて立たせて頂くから、神が喜ばれる、その喜びが私共の方へ交流してくる。そういう喜びが、御道でいう信心の喜びなんです。ですから13日会がそもそも神の悲願に応えてからの会でありますからね。
この13日会というのがです、私はいよいよね、合楽の信奉者の全部が、だけではない、御道の信心さして頂く者の全てがです、この13日会の精神を体して、信心の稽古をさして頂くと言う事がですね、一番尊い信心だと言う事になります。まだ合楽でも中心になる方達が、まだこの13日を知らぬ人すらが沢山ございますね、13日会に集まる人だん、もう暇人ばっかりじゃろぐらいに、合楽の信奉者の中にでも、そのくらいの程度にしか感じてない人があります。それをようやく2、3回ね。
全信者にこのことを段々、通知をするようになりました。けれどもまだ眠ってそれに応えよう、いわゆる神の願いに応えて立とうとする、まだ眠っておるわけです、皆が真の信心にね、ですからここんところ、今日の御理解あたりが分かるとですね、とにかくせめて13日会だけでも、神の願いに応えて立たせてもらおうと言った様な、あぁ信心が、あ~でてこなければなりません。13日会にでてさえくりゃ、もうそれでよいかというとじゃありません。
日々信心のけいこをしっかりさせて頂きよって、そしてなおかつ13日会の精神を、ね、全ての私共の生活の中にも頂いていこうというのが、あぁ神様の願いであろうと私は思うんです。今日の御理解を頂いておりますと、朝のご理解を頂いておりますとです、ただ、喜びで開けた道じゃから、喜びで苦労はさせんと仰る、ただ喜んでさえおりゃというのは、これは金光教だけのことじゃないね、
ですから本当の金光教の信心というのはですね、生神が日々誕生していく、生まれてくるおかげを頂くことだと、それはどう言う事かというと、神の願いを受けて立たせてもらうね、神様の願いをに私共が向きを変える、自分の願いじゃないですね、神様の願いに私共の心が向きを変える。そこから今朝のご理解の中にも申しておりますように、昨夜の御理解ね、おかげを頂きたい、徳を受けたいね、それでは、おかげも徳も、本当なおかげは受けられんと、本当のおかげは。本当の徳が受けられんてね。
私共がいよいよ信心を頂きたいと言う事になってくる時にです、おかげも受けられれば、徳も受けられるという御理解が、有名な御理解でしたですね。これで一つ徳つもうてんなんてん思うとる人がある、こういう事してから、徳を受けようと思うとる人がある。そう言う事で徳は受けられるもんじゃないです。それは受けたところで、それはもう徳のような徳であり、おかげを受けたところでそれは、おかげのようなおかげであって、本当のおかげじゃないね。
真のおかげにつながるもんじゃない。真のおかげ真の徳というものはです、私共が信心を頂くと言う事からしか生まれてこない、もちろん真の信心ね、そこでなら信心を頂くためには、合楽に参ってきただけじゃない、参ってきたら本気で教えを頂かなければ、信心は分からんと言う様に、今朝のご理解にも説いてございますよね、徳を受けたい徳を受けたいというて、合楽に来りゃ徳が、それこそ成る程ただようておるような感じだ、だから合楽に来れば徳を受けるかというとそうじゃない。
合楽に来たらね、その合楽で説かれておるところの教えを頂く、信心を頂くと言う事からしか、徳もおかげも受けられないと言う事。お互いが信心を頂くと言う事に方向が変えられなければなりません。おかげを頂かにゃんけんお参りするじゃなくて、信心を頂かにゃならんから合楽にお参りをするという生き方がです、金光大神の信心であり、また神様へ自分の姿勢向けた(拍手1回)という信心が、まずここから始まらなきゃならん。そして、神様との拝み合いということになる。
それを「あいよかけよ」という言葉で説いてあるね、そこから神様と私共の交流が始まるね、交流が始まる所から、有り難いなぁというものが生まれてくる。そこから生みなされるのが生神なのだね、そのその生神が誕生する、日々生神の誕生を楽しませてもらう信心。今朝のご理解を頂いて、もういよいよここに極まっておるのです。ですから13日会というのは、そういう精神のもとに、13日会が行われておるのです。
ですからこの13日会を今までは、13日会にあんたも参らんの、彼も参らんのということは、絶対言わなかったんですけれど、ここ2.3回ですね、ハガキが参ります様になったのは、けれどもやはり昔と一つも顔ぶれが変わらないでしょ。まぁだ眠っている訳ですから、私共はその眠っておる人を起こし続けていかなければならない、責任をお互い感じて頂きたいと思うですね。
どうぞ。